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銭湯雑学特集

  • 執筆者の写真: 千裕
    千裕
  • 2018年10月6日
  • 読了時間: 5分

これを知ってたらあなたも銭湯マニア?な雑学特集です!


石けんの歴史

お風呂には欠かせない石けんですが、現在のような石けんが広く使われるようになったのは明治時代からです。

江戸時代は、一般の人々はヌカなどを使っていました。

石けんの元祖は、「シャボン」です。シャボンの由来は、スペイン語「Xabon(Jabon)」が訛ったポルトガル語の「Sabao」から来ているという説が有力です。


16世紀のヨーロッパでは、石けん工業が最盛期を迎えており、一方日本ではポルトガル船が種子島に漂流し、キリスト教を始めとする様々な西洋文化が伝わりました。その中にシャボンも含まれていました。石田三成が慶長元年(1596)に、博多の貿易商神谷宗旦からもらったシャボンに対するお礼の手紙がシャボンのもっとも古い記録として残っています。


それまでは外国産の石鹸が主でしたが、明治6年(1873)に、横浜に日本初の石けん工場「堤石鹸製造所」が生まれ、その後は石けんという言葉が一般化し、国産石けんが広がりました。それを皮切りに、明治には次々と銭湯工場が建てられました。明治13年(1880)には、65%が国産で賄われました。

しかしその後、粗悪なヤシ油石けんが出回り、再び線来賓の石けんが増えていきました。


明治23年(1890)に、花王の前身である長瀬商店が花王石鹸を発売しました。製造技術の機会かも進み、石鹸産業が急速に成長しました。


銭湯に使われる花王石鹸の暖簾

シャンプーの歴史

江戸時代までは、髪の長い女性でも毎日洗うことはできず月1、2回がせいぜいでした。そのため、伽羅や麝香の香りを含ませた髪油を塗ったり、枕の中に香炉を置いた「香まくら」で髪の匂いを消したそうです。髪を洗う時は、豆粉、米ぬか、椿のしぼりかす、ふのり、うどん粉、卵の黄身、灰汁、粘土、白土などの混合粉を使いました。


明治時代は、火山灰にかまどの灰などをませた「髪洗い粉」、大正には、粉石けん、炭酸ソーダ、硼砂(ほうしゃ)を配合した洗髪料が売られましたが、現在のシャンプーとは違うものでした。


昭和初期、毛髪専用洗浄剤が開発され、昭和7年(1932)に、花王石鹸株式会社より固形の「花王シャンプー」が販売、シャンプーという言葉が広まりました。


本格的にシャンプーが普及したのは昭和30年(1955)に粉末の「花王フェザーシャンプー」が販売され、液体のものも開発された頃です。


銭湯の名前

銭湯の名前(屋号)は似たようなのが多く、中にはまる被りのものもあります。

全国に最も多い屋号は、「松の湯」です。なんと、全国の銭湯の40軒に1軒が松の湯だそうです。


新宿区の松の湯

昭和40~48年のドラマ「時間ですよ」の舞台では「松の湯」が使用され、続編でも「亀乃湯」「梅の湯」と、全国に多い屋号が使われました。


他にも、「鶴の湯」「竹の湯」「大黒湯」「寿湯」「栄湯」「日の出湯」「宝湯」「富士の湯」など、縁起の良い文字がよく使われれています。


中野区の大黒湯

銭湯の名前の由来になるのは、他にも、地名、経営者の出身地や名前、開業時の出来事に関するものなどがあります。


東京で変わった屋号を持つ銭湯もあり「ピース湯」「ゆ〜ポッポ」「バン・ドゥーシュ(フランス語で浴びるシャワー)」というのもあります。


江戸時代から残る銭湯

東京には、江戸時代に創業し、まだ営業を続けている銭湯があります。

江戸川区の「あけぼの湯」は、安永2年(1773)の創業。それ以前の1596~1615年には船堀で舟問屋「乙女屋」を営んでおり、舟客らを相手に銭湯の経営も始めました。


銀座の繁華街にある「金春湯」は、文久3年(1863)に開業、昭和32年にビル銭湯となりました「金春」は、江戸時代の幕府直属の能役者「金春太夫」の屋敷が近くにあったことからきています。


現在も営業中「金春湯」

浅草の「蛇骨湯」は、江戸時代に「蛇骨長屋」という長屋が近くにあったことから名つけられ、大正時代に現在地に移動しました。


伝統的な銭湯の保存

次々と廃業していく銭湯を遺産として残すという動きはほとんど見られませんが、営業当時の姿を再現して移築保存されている銭湯が2つあります。

1つは、東京小金井市の「江戸東京たてもの園」にある「子宝湯」です。

元々は、昭和4年(1929)に東京都足立区千住元町に建築され、昭和63年(1988)に廃業しました。

宮造りの外観は、「千と千尋の神隠し」の「油屋」のヒントにされたと言われています。

建築は、唐破風、入母屋破風、七福神の彫刻、脱衣所の折り上げ格天井など、伝統的な手法が取り入れられています。


江戸東京たてもの園の子宝湯

もう1つは、愛知県犬山市の「明治村」にある「半田東湯」です。これは、今では珍しい明治時代の銭湯です。

元々は、明治末年(1910)頃に現在の愛知県亀崎町に建築され、昭和55年に移築されました。廃業時にタイルになっていた部分も、木を使って復元されています。


別の姿に生まれ変わる銭湯

廃業した銭湯を別の施設として有効利用している例を紹介します。

表参道駅にあるとんかつの「まい泉」は、もとは銭湯でした。

昭和52年頃に「神宮湯」が廃業し、隣で営業していたまい泉がそこで営業を始めたそうです。銭湯の特徴的な建築である格天井も残っています。

こちらの記事に銭湯からのまい泉誕生秘話が載っていました。


格天井が残るまい泉の店内(出典:https://www.homes.co.jp/)

台東区谷中にあるギャラリー「スカイ・ザ・ハウス」も、元々は銭湯でした。

天明7年(1787)創業の「柏湯」は、平成4年に廃業しましたが、歴史ある銭湯をなんとか残したいというご主人の想いから、内装を改装してギャラリーになりました。


京都の西陣にある複合ショップ「離楽庵WOOD-INN」も、元は「藤の森湯」という銭湯でした。現在は、1階はカフェ、2階は雑貨店となっています。


銭湯と北陸の意外な結びつき

銭湯経営者は、北陸出身の人が多いそうです。

遡ること江戸時代、寒冷地の農村からは若者が江戸まで出稼ぎに行っていました。出稼ぎの若者の職業のひとつとして、銭湯がありました。

北陸出身の若者は、持ち前の粘り強さから重労働の銭湯経営を頑張りました。独立して自分の銭湯を運営する人もいたそうです。

銭湯の従業員を雇う時は、信用が重要だったため、血縁者を雇うことも多く、結果的に銭湯業界は北陸出身の人が多い業界になりました。

東京では、新潟、富山、石川の3県、大阪では、富山、石川、福井の3県が主です。

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東京銭湯研究家の銭湯千裕です。銭湯の魅力を伝えるべく、日々銭湯に通っています。

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