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広告収入で富士山を書く?銭湯における広告システム

  • 執筆者の写真: 千裕
    千裕
  • 2018年10月4日
  • 読了時間: 3分

銭湯でよく見かける富士山の背景画は、広告収入を元に描かれていたという歴史があります。

また、「ケロリン」と書いてあるプラスチックの桶も、広告です。

この2つについて紹介します。


富士山の背景画誕生秘話

富士山の背景画は、大正時代の東京で生まれました。東京千代田区の猿楽町にあったキカイ湯が大正元年(1912年)に増築することになり、2代目の東雄三郎さんのアイデア壁に描いたら子供が喜ぶのではないかということで実行されました。

ちなみに「キカイ湯」というのは、当時では珍しい汽船のボイラーを活用した風呂釜を利用したことが由来で、いまでも猿楽町のTOHYUビル(東京都千代田区猿楽町2-7-1)に「キカイ湯跡」のプレートがあります。TOHYU(東雄)ビルの由来は、二代目の名前から来ているそうです。

なぜその絵が富士山だったのかというと、東さんが絵を依頼したのが静岡県掛川出身の川越広四郎という画家で、生まれ故郷の風景かつ見れば誰でも美しいという富士山を描いたためです。

これが見事に大当たり。当時の日本人は富士山の実物を見たことはないが憧れを抱く人は多く、銭湯における富士山画は、東京中に広がっていき、やがて地方にも広がりました。


背景画と広告

富士山の誕生で、銭湯の壁に注目が集まったことで、銭湯を広告に利用しようと考えた広告代理店が現れます。当時は、人々が毎日通い、ラジオもテレビもなかったので、銭湯の壁は、広告を出す場として最適でした。

代理店は、銭湯の近所の店などに営業し、背景画の下に企業のポスターを貼りました。


富士山の背景画と企業ポスター

広告期間は1年間で、1年おきに、広告の更新とともに背景画も新しく描き変えられました。背景画を描くための費用は広告料から出されていました。

毎年変わる絵をお客さんも楽しみにしていたそうです。


富士山背景画豆知識

最盛期にはかなり広がった銭湯の背景画ですが、時代が経つとともに、少なくなっていきました。昭和40年ごろには東京に数十人いた背景絵師も、いまでは全国でたった二人(丸山清人さん、中島盛夫さん)です。

かつての絵師の仕事は、3年は見習いで雑用から始まるそうです。描くタイミングは、営業前の早朝から6〜7時間。男湯なら仮に描き終らなくてもお客さんが多めに見てくれるため、女湯から描いていたそうです。

背景画に選ばれる画材として最も多いのはやはり富士山です。どこから眺めた富士山が多いかというと、1番目は西伊豆、2番目が三保の松原、3番目が富士五湖です。

背景画に描いてはいけない画材というのがあります。猿、夕日、紅葉です。猿は客が去る、夕日は家業が沈む、紅葉は落ちる赤くなる、ということで、銭湯の営業において縁起の悪いものとなっています。


ケロリン桶の秘密

銭湯によく置いてある「ケロリン」と書かれた桶も、元は広告が始まりでした。


ケロリン桶

プラスチック桶販売のために会社を創設した睦和商事の営業社員山浦和明(現社長)が、桶が木からプラスチックに変わるタイミングで、全国の銭湯の桶に広告を掲載する「コマーシャル桶」を思いつき、全国へ営業に行きました。

しかし、「製品名に垢がつく」ということで何百社にも断られました。

その中で、内外薬品の社長に提案したところ、採用が決まったのです。

富山県の内外薬品が作る「ケロリン」は、大正14年(1925年)に誕生した鎮痛剤です。昭和38年(1963年)に東京駅付近の東京温泉に置き、全国の戦闘、温泉やゴルフ場にも広がりました。ケロリン桶は、いまでも年に4〜5万のペースで作られ、銭湯の定番風景となりました。

近年は、レトロブームでブームが再来し、ケロリングッズも販売されています。

当時は、色は白でしたが汚れが目立つので黄色になりました。また、関西では、湯船から湯を汲む習慣があるため、関東よりも大きく軽い桶になっています。

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東京銭湯研究家の銭湯千裕です。銭湯の魅力を伝えるべく、日々銭湯に通っています。

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