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のど自慢にサブスク銭湯?銭湯文化が発展した江戸時代

  • 執筆者の写真: 千裕
    千裕
  • 2018年9月27日
  • 読了時間: 5分

こちらの記事でも紹介した通り、江戸時代は銭湯が庶民の間で文化として浸透した時代です。

人々が銭湯の様々な楽しみ方を見いだしていった、銭湯文化の発展についてみていきましょう。


江戸銭湯の看板

銭湯の看板といえば「ゆ」と書かれたものが現在は一般的ですが、これは江戸時代後期からになります。

それ以前は、屋根に弓に矢を吊り下げる所が多く、「湯に入る」と「弓射る」の駄洒落だったということが「浮世風呂」に記述されています。

銭湯の季節行事

江戸の銭湯は、月ごとに様々な行事がありました。

江戸の銭湯組合が出版した銭湯経営の手引書「洗湯手引草」によると、銭湯の紋日が定められており、毎月1日と紋日には、客が湯銭を紙に包みおひねりにして持参しました。

銭湯は、お茶などをサービスしました。

紋日の多くは、商家の祝日となるめでたい日で様々な飾り物や季節の食べ物で祝ったそうです。

5月5日は、邪気を払うため菖蒲(しょうぶ)の根や葉を入れて、菖蒲湯を行なったり、6月の土用の暑い日は桃の青葉で暑気払いの桃湯、11月の冬至には風邪をひかないようにと柚子湯を行なったりしました。

12月13日は、1年分溜まった煤を払う日とされており、煤払い湯が行われました。

また、1月17日と7月17日はどの銭湯もお休みでした。これは、1月16日と7月16日が商家の奉公人は休みなのですが、世間が休む日に銭湯は休みにくいので営業して、その翌日に銭湯の奉公人を休ませたためです。


のど自慢大会

銭湯の中で湯浄瑠璃(のど自慢)が行われていたという記録が山東京伝作の「賢愚湊銭湯新話(けんぐいりこみせんとうしんわ)」にあります。

当時の石榴口は、暗くて狭く音響も良かったと思われます。

上手い下手関係なく、皆のんびりと歌を聞いていたというほほえましい光景だったようです。


着物泥棒現る

脱衣所では、他人の着物を着て帰ったり重ね着して帰る着物泥棒「板の間稼ぎ」が現れました。

これを監視するのも番台の仕事です。

板の間稼ぎを見つけた場合は、罪人の両腕を棒にくくりつけさらし者にしたあと、顔や体に油煙などを塗って追放しました。

江戸銭湯の料金変動

江戸の銭湯は、庶民が毎日入れるようにと、とても安く設定しており、一番最初は永楽1銭でした。

洗湯手引草」に記された「湯屋万年暦」によると、1624~1772年は大人6文・子ども4文、1772~1794年は大人6〜8文・子ども4〜5文、1794から大人10文・子供6文になりました。

しかし、天保の改革(1841~1843)の際には大人6文に値下げし、水野忠邦が失脚すると、大人8文・子供6文になりました。

江戸時代の銭湯の料金は安定しなかったんですね。

ちなみに、1文どのくらいの価値なのかというと、かぼちゃ1個が35文、茄子10個が35文という記述があったことから、銭湯の料金はかなり安かったと考えられます。


江戸銭湯の料金システム

小銭のやりとりの手間を防ぐため、湯札(羽書)という回数券が登場しました。ちなみにこれは、現代の銭湯にもあります。


東京で使える入浴回数券

逆に都度お金を支払うことを「現金湯」と呼びました。

また、サブスク型の銭湯もあったようです。サブスクとは、「サブスクリプション」の略で、月額課金という意味でです。

現在はこういうシステムはありませんが、江戸では「留湯」という、月額課金制のシステムがありました。1ヶ月いくらという契約でいつでも入れるというもので、支払いの簡略化、割引、安定収入というメリットがあります。


三助さん

三助さん(出典:http://yutty.jp/)

こちらの記事で紹介した湯女がいなくなったあと、銭湯で活躍したのが「三助さん」という人たちです。三助さんは近年まで銭湯の花形の職種で、褌(ふんどし)またははんだこ姿で男湯にも女湯にも赴き、客の背中を流したそうです。今この仕事があったらセクハラになりそうですが。笑

三助さんになるには、修行が必要で、釜焚き、湯の温度調節、掃除、開店準備などいろんな仕事がありました。

三助さんは、先ほど紹介した季節ごとの行事でお客さんが持ってくるおひねりをもらえたそうです。

三助さんという名前の由来は、いくつかの説があります。

江戸時代に、越後から出て来て湯屋で働く三兄弟が勤勉で働き者で客の人気も高く、その名が全員「助」がつくことから、「三助さん」と呼んだという説。

もう一つは、光明皇后の施浴で、お手伝いをしたのが3人の典侍(すけ)という高級女官の職種のひとつであったためという説。

また、湯女風呂が禁じられたときに、湯女が3人の男に変わったため、という説もあります。


湯屋仲間

江戸時代、商工業を営業する者は仲間(組合)を作り、仲間として冥加金(みょうがきん)という税金の一種を払う事で営業独占権と幕府からの保護を得ていました。

銭湯営業する者同士の湯屋仲間という組合は、1810年に幕府から正式な公認を得ました。

湯屋仲間では、湯屋株を持っている人が「株主」、株主の湯屋を借りて営業する人が「仕手方」「預かり」と呼ばれ、仕手方は株主に相応の敷金を入れ、湯銭の中から揚げ銭を株主に支払って営業しました。

湯屋仲間成立時は、湯屋10組523株(男湯専業141株、女湯専業11株、男女両方371株)でした。

しかし、水野忠邦の天保の改革(1841~1843)で、経済の自由化のための株仲間解散が行われ、湯屋仲間も解散されました。それにより、銭湯が急激に増え、混乱を極めたそうです。

湯屋仲間が再結成されるのは、水野忠邦失脚後の1851年です。

江戸よりも先に湯屋仲間が成立したいたのが大阪です。1804年の「諸株物調」では、湯屋株140株、風呂株36株でした。

京都では、1864年の「湯屋仲間九組株主名前帳」によると、153株でした。

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東京銭湯研究家の銭湯千裕です。銭湯の魅力を伝えるべく、日々銭湯に通っています。

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