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江戸の銭湯は混浴や風俗が当たり前だった?!

  • 執筆者の写真: 千裕
    千裕
  • 2018年9月26日
  • 読了時間: 3分

現在は、男湯と女湯で別れるのが当たり前ですが、江戸時代初期は混浴が当たり前でした。この記事では江戸時代における風俗銭湯と混浴の文化について紹介します。


銭湯で風俗「湯女風呂」

江戸時代初期に、「湯女風呂」という今でいう風俗的な風呂屋がありました。

湯女風呂では、女性が男性の垢をかき、髪を洗い、酒を接待し、枕を共にしました。

慶長見聞録集」には当時の湯女風呂の様子が描かれています。

「湯女」の由来は、こちらの記事で紹介した、「施浴」で、浴室・温室を管理する僧侶のことを「湯維那(ゆいな)」略して「湯那」と呼んだことではないかと考えられています。


吉原遊郭の様子

当時の江戸は、全国から集められた単身赴任の武士、職人、商人ばかりで、男性が多い町だったため、湯女風呂は非常に繁盛しました。2階を建て増すところも多かったそうです。

1657年には、江戸に200軒以上建てられました。

「落穂集」によると、湯女風呂では7ツ(午後4時)になると、一般入浴客を断り、脱衣所を座敷に変えて三味線を手に客を迎えたそうです。


ナンバーワン湯女「勝山」

紀伊国屋風呂という湯女風呂に「勝山」という女性がいました。

勝山は、美貌と才能に優れた湯女であり、当時一世を風靡したと言われています。

当時、丹後国(現在の北陸あたり)にあった堀丹後守の屋敷の前に、数軒の湯女風呂があり、俗に「丹前風呂」と呼ばれていました。そこで派手な風俗が競い合ったことから「丹前風」という言葉が生まれたそうです。

その丹前風の中のトップが勝山でした。

「歴世女性考」によると、勝山の髪型は「勝山まげ」として一般女性の間で流行したそうです。一昔前の「聖子ちゃんヘア」的な感じでしょうか。


勝山まげ

その後、丹前風呂は、武士の喧嘩で閉鎖してしまい、勝山は吉原に入り、大名相手の吉原の最高職「太夫」となって話題になりました。


しかし江戸の湯女風呂は、1637年に一湯について湯女3人までの制限が設けられ、それが守られなかった結果、1657年には湯女風呂が禁止とされます。

幕府は、200軒の湯女風呂を取り壊し、600人の湯女を吉原に送りました。

以降、江戸の湯女風呂は保健衛生のために入浴する公衆浴場として存続しました。

湯女風呂の二階は、のちに江戸の男たちの社交場となります。

一方、大阪では、湯女風呂は幕末まで続いたそうです。


混浴禁止令

江戸時代の混浴は「入れ込み湯」「打ち込み湯」と呼ばれていましたが、当時の石榴口の銭湯は、中が暗かったため風紀上の問題が起こることもしばしばありました。

特に女性は、男性によるセクハラに迷惑していたり、見合いや逢い引きが行われていた可能性もあります。

そのため、1791年の松平定信による寛政の改革の一環として混浴禁止の通達がなされました


その後、男湯専業、女湯専業または入浴日を男女で分けて営業する銭湯が登場しました。

しかし、それでは売上が半減するので、そのうち浴室や浴槽の中央に、仕切りを立ててることで男女両方とも来れるようにする銭湯が出てきました。


ただ、それでも法律を守らずに混浴営業し続ける銭湯が多く、水野忠邦の天保の改革でも禁令が出ています。

混浴銭湯は、江戸時代では完全になくならず、明治初頭まで続きました。


参考文献:銭湯検定公式テキストⅠ

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© 2018 by Chihiro Sento Igarashi

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東京銭湯研究家の銭湯千裕です。銭湯の魅力を伝えるべく、日々銭湯に通っています。

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