銭湯文化が根付いた江戸時代。最初はサウナが主流だった
- 千裕
- 2018年9月25日
- 読了時間: 3分
更新日:2018年9月26日
これまで銭湯の起源を見てきましたが、庶民が本格的に銭湯を利用するようになったのは江戸時代からと言われています。
江戸最初の銭湯は?
江戸最初の銭湯は、徳川家康が江戸入城した翌年1591年に、伊勢与市という人物が建てたと記されています。
場所は、日本橋です。労働に疲れた人々の利用を見込んで建てられたと考えられます。
江戸で銭湯が発展した要因について、西沢一鳳軒の「皇都午睡(みやこのひるねこうとごすい)」によると以下の3つが考えられます。
1つめは、裕福な豪商が家に浴室を持たなかったこと。これは、風呂は火事になりやすく、水の確保や湯を沸かすのにお金もかかるためです。2つめは、江戸の町の発展、3つめは、それを支えた労働者たちの需要があったことです。
江戸時代、人々は毎日銭湯に通い、銭湯は日の出の30分前から日没の30分後まで営業しました。
しかし、火事の危険がある風の強い日は臨時休業になることも多かったようです。将軍の外出時も風が強くなるので道筋に近い銭湯は休業となりました。その他、浴室で脱糞されたり、老人があつ湯で急死した際も臨時休業となりました。
最初はサウナ形式が多かった
次に銭湯の形式についてです。江戸最初の銭湯は、現在主流になっているお湯に浸かるタイプではなく、サウナ形式の蒸し風呂が主流だったそうです。 蒸し風呂の方が、水を大量に使わず経済的だったためです。
蒸し風呂で汗をかいた後、上がり湯をかけていたそうです。
当時、お湯タイプの銭湯を「湯屋」、蒸し風呂タイプの銭湯を「風呂屋」と呼んでいました。
しかし、時代が経つにつれ、湯屋の方が人々に好まれ、風呂屋は次第に姿を消しました。
京都では湯屋敷が最も多かったということが、1715年の「京都御役所向大概覚書」に書かれています。
蒸し風呂が減ってくると、戸棚風呂という、蒸し風呂と湯浴を組み合わせた形式が登場しました。
「守貞謾稿」によれば、お湯を30cmほど引いて、上半身は蒸し風呂、下半身はお湯で温めたそうです。
蒸気を逃さないよう、引き戸を閉めたのが、戸棚に似てたことから「戸棚風呂」「板風呂」と呼ばれました。
しかし、戸棚風呂では引き戸を開け閉めするたびに蒸気が逃げてしまいます。
その欠点を改良したのが、石榴口(ざくろぐち)です。
石榴口は、扉ではなく入口上部に板をつけて、下から潜るようにして入るような入口です。
浴槽の上部をふさぐことで、蒸気が上から逃げるのを防ぎました。
下の絵の奥に見えるのが石榴口です。
石榴口という名前の由来について、山東京伝の「滑稽集」の中で、かがみ込んで入ることを「鏡鋳る」とかけて、昔は、鏡を磨くのにザクロの実を使っているためと書かれています。
他に、入る時に声を丸く低くして入るため、蛇に飲まれるように見えると言う事から「蛇喰口(じゃくろぐち)」がなまって石榴口と呼ばれるようになったと言う説もあります。
石榴口は、江戸では鳥居形が主流で、大阪では破風屋根が主流でした。
しかし、この石榴口も、中が暗いため、赤ちゃんの便や殺人事件に気づかないということもあったそうで、明治に改良されました。
参考文献:銭湯検定公式テキストⅠ
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